おさんぽ大蓮寺

大蓮寺にまつわる楽しいお話、愉快なお話、不思議なお話、ちょっと怖いお話を集めました。

 

古代もお墓

昭和41年頃、小学生だった住職が墓地の護岸工事で掘り上げられた土の中から発見した、はにわです。新河岸川に沿った台地のはたに古墳が点々と見られます。墓地の一部は江戸期は的場として使用されたこともありましたが、古代人もここをお墓にしていたようです。

 

爺榎・婆榎


境内のケヤキの古木

『三芳野名勝図会』『川越素麺』などに記載されているお話です。享和年間(1716~1735)大蓮寺門前に爺榎婆榎と呼ばれる二株の古木がありました。門を普請するために伐採し、倒れる時の風に触れた人々が皆全身に発熱の後にできるような発疹ができました。「だれかの霊の木ではないか」とその頃云われたそうです。

 

「時の鐘」に使われた大蓮寺の鐘

川越のシンボル、最初の時の鐘は宝暦元年(1704)老中秋元喬知が塩山から持ち込んだもので3代後の涼朝は山形へ持って帰りました。次の松平朝矩は長喜院から鐘を借り、次の直恒が作った鐘は4年あまりで焼けてしまいました。行伝寺の鐘を70年借りていた後、斉恒が作りますが、安政3年(1856)また火事で焼失。その後5年間直侯が新鋳するまで時の鐘だったのが、大蓮寺の鐘です。現在の鐘は明治27年(1894)のものです。尚、大蓮寺の鐘は太平洋戦争で供出され現在はありません。

 

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六塚神社にお引っ越しの神様たち

大蓮寺にあった三つの神社が六塚神社に摂末社として祀られています。

 

大蓮寺の西、菓子屋横丁の斜向かい、高沢橋の手前に六塚稲荷神社があります。大蓮寺、六塚神社のある元町二丁目は以前高沢町と呼ばれ『三芳野名勝図絵』に「江都日本橋の如し」と著されています。現在の元町二丁目は菓子屋横丁やお祭り会館などがあり観光客で賑わっています。
六塚神社は『風土記稿』に「六塚稲荷又六丘稲荷とも呼ぶ。相伝ふ昔太田道真この地に住せし時、荒野を開かんとして、古丘六つを穿(うがち)崩してそのあとへ稲荷六社をたてしが、其後五社をば廃してこの一社に合祀す」とあり、この地が江戸期より商業を生業とする者が多く商人の神として厚い信仰を受けています。

 

六塚神社の大鳥居の右奥にもうひとつの鳥居があります。ここに左から琴平、三峯、八幡の三つの神社があります。
この三社は明治初期まで大蓮寺境内にあり、神仏分離令により、ここに合祀されたと思われます。

 

八幡社には、
「施主松平甲斐守内浅井権右衛門尉導師大蓮寺勝蓮社譽行山和尚寛文七丁未二月十五日奉建立」
の棟札があります。
寛文7年(1667)の住職は当山七世超譽上人(延宝7年《1675》寂)にあたります。
約200年以上大蓮寺に祀られていたことになります。

 

琴平 三峯 八幡神社

六塚稲荷神社

菓子屋横丁

 

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だいれんじ火

だいれんじ火 『川越の伝説』川越市教育委員会

むかしのおはなしです。砂の扇河岸あたりから仙波、古谷にかけては、人家もなくえんえんと水田が広がっておりました。このあたりでは、秋から冬にかけて小雨のふる夜になりますと、不思議な火の玉が飛び出してくるといいます。ある日、秋の夜もふけたころ男の人が古谷の方から砂へ帰りかけたころです。ちょうど小雨が降ってきましたので、いそぎ足で行こうとした時に、とつぜん、うわさの火の玉が飛び出してきました。そして男の人へだんだん近づいてきます。目の前をさえぎり身体に火がつかんばかりに近寄ってきます。あまりのこわさに、うしろもふりかえらず、かけ足で家へ逃げ帰りました。このことをおじいさんに話しますと「それは、だいれんじだべえ、よくさからわずに帰ってきたな、あの火の玉をふりはらったりすりと、火にとりつかれて、ひどいめにあうんだ。だまって知らんふりで通りすぎれば火の玉は小さく散っていき安心だべえ」このだいれんじは大蓮寺といいますお寺のことで、元町の方にあります。川越あたりで一番最初に火の玉が飛び出したのが大蓮寺あたりだったので、それがいつか火の玉のことをだいれんじと呼ぶようになったということです。

 

ダイレンジ 『日本伝説叢書 北武蔵の巻』

雨の降る晩などに田んぼの小道を歩いていると現れ、目の前に来ると幾つにも分かれて見える。それに構わず過ぎれば、火の玉は自然と遠くに行ってしまうが、驚いて騒いだりその火を消そうと
すると、目の前を遮り、傘に取り付いて酷い目にあわされるという。
その際傘は燃えないそうである。現れる季節は決まっており、九月から二月の小雨の夜に多かったという。

 

大蓮寺火 参考:『多濃武の雁』太陽寺盛胤

むかし、古谷上の二ノ関の田の中に、樹木がこんもりと繁り中へ入ると昼間でもうす暗いという塚があった。この塚に次のような話が伝えられている。
毎年夏から秋にかけて、毎晩のように大きさ一尺(33センチ)ぐらいの火の玉が、この塚から飛び出してきて、空中をゆらゆらとただよい、さらにまわりの村々までも飛びまわって、明け方になると、もとの塚に帰ってくるのである。別に、村人たちに危害を加えるわけではないので、村人たちはだれも恐れない。
むかし、この塚に大蓮寺という山伏が住んでいた。山伏は他界してから、どうしたわけか不運にもその魂が安住の地を見つけることができず、霊火となって夜な夜なさまようようになり、常に人里近くまでやってくるようになったと言われている。
大蓮寺と同じものに、豊後(大分)の不知火、津国(三重県津市の二恨坊や宮の火がある。河内(大阪府の北・中・南河内の三郡)には、姥火というのがあって、いつごろだったか旅人がこれにあたり、火が顔の前に落ちた。驚いてすぐそばせよくよく見ると、鳥のようなくちばしをたたく音がしたが、たちまち丸い火の玉となって遠くへ飛び去った。これは鵁(ごいさぎ)だった。大蓮寺火もこの類ではなかろうか。

 

現在の古谷上、古谷神社周辺

 

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酒樽型の手賀の墓

松平大和守斉典(なりつね)(1797~1849)の家臣手賀家の墓は珍しい酒樽型をしています。
それには川越城主松平斉典と家臣の手賀金兵衛とのエピソードがあります。

 

水あげ穴も
一升桝型をしています。

鷹狩に行った越辺川

手賀がごちになった川越城、本丸御殿

 

参考:『川越閑話』岸 伝平

松平大和守は七代99年間江戸中期~後期、長期に渡り川越城主でした。なかでも斉典は賢君で『日本外史』を川越版として刊行したり、講学所である「博喩堂」を設けたり、また隣の川島町の洪水の治水策として鳥羽井堤を作りました。藩主の功績が賞賛された「櫻花帖」や歌集「めぐみの花」が郷土の歌人井上淑蔭に著作され、ここに酒徒の無礼をとがめなかった逸話が残されています。

 

 斉典はよく民情視察をかねて鷹狩に出掛けた。あるとき越辺川(おっぺがわ)の沢地に自らも家臣とともに獲物を追跡して入った。当時に鷹狩頭巾を深くかぶっており、家臣たちも引き揚げる夕方の薄暗がりとてお互いに頭巾ゆえ人別が眼の所しか見えず識別が判然しなかった。まさか藩公とは気付かずに、家臣の手賀金兵衛が頭巾をかぶった藩公のそばに寄って、そっと肩をたたきながら、
「いくら殿様が御倹約とてけちでも、こう水浸しの中に一日中を狩りで獲物の鳥を追廻し使われてはかなわぬよ。晩には一杯ごちに預かりたいものだ」
と藩主とは知らずにささやいた。ところが相手の頭巾姿も軽くうなづき「そうともそうとも」と心で笑って返事した。さすがの金兵衛もこれが殿様であるとは知らなかった。
 やがて獲物を土産に川越城に帰城した。城内で珍しく藩主の命令で一同に酒肴が出た。酒の廻った頃、破格にも御前近くに手賀金兵衛にお呼び出しがあった。恐る恐る金兵衛が平伏していると、藩主の斉典が笑いながら、
「金兵衛今日は一日中、沢地で獲物を狩り出すので、御苦労であった。ゆっくりと酒を呑んで百姓達のことでも話せよ」
笑いながら云いだした。金兵衛はなおとかしこまっていると、
「どうだ大和はけちではなかろう」
と昼間にごちと肩を叩かれた話をされた。手賀もこれにはびっくり閉口したが、藩主の寛大なる気持ちが判って、平素に呑金と評される酒徒とて、欣んで御馳走になったという。

 

この金兵衛の父親の平右衛門も知られた酒徒であったとみえ、大蓮寺の墓地に手賀家の墓石が造立されているが、なんと酒樽の石標で、前の水あげ穴を呑み口にたとえ、これもまた丁寧にも桝型の一升桝に彫られてあって、酒徒にふさわしい珍しい墓である。

 

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